Update : 2024.5.5
読み方 : てぃー・あーる・えふ
正式名称 : TK RAVE FACTORY (ティーケー レイヴ ファクトリー)
「TK」とは、Tetsuya Komuro=小室哲哉のこと。
1998年からは基本的に小室プロデュースでなくなっているが、TRFの正式名称はずっと『TK RAVE FACTORY』であり続けていると思われる。(個人的見解)
CDデビューまではメンバーが流動的で、複数名のヴォーカルとDJにダンサーチームのMEGA-MIXが参加しているというユニットだった。1stアルバムの世界観を続けるのであればそれが続いたのであろうが、小室・avexの戦略が「一般世間へ売り込む」という形になった際にメンバーが絞り込まれていき、『EZ DO DANCE』リリースの頃に8人、93年の秋ごろに現在の5人:YU-KI(Vocal)、DJ KOO(DJ)、SAM(Dancer)、CHIHARU(Dancer)、ETSU(Dancer)に固定された。
ヴォーカルもDJも2人の存在が確認されるが、YU-KIはtrfの活動が始まった早い段階でメンバーとして自覚を持ち、DJ KOOも本人曰く「押しかけ弟子」的に、小室の作業場へ呼ばれてもないのに行っていたという。
一方MEGA-MIXは、打診段階では「MEGA-MIXにオリジナル曲を作ってくれる、それもヒップホップとかアシッドジャズとかの」と認識していたそうで、全容が明らかになった時点で「最初に聞いていた話と違う」状態であった。小室の説得もあって妥協点を探り、イベントごとに契約する仕事として割り切ってやる姿勢を取った。その後ダンサーの人数を減らしていきたい旨を小室から打診された際も「やりたくない人から抜けた」面が強いようで、残ったSAM、ETSU、CHIHARUもまだ「気に食わなければいつ辞めたっていいよ」というスタンスで臨んでいたという。
94年にtrfは大ブレイクを果たすことになるが、その時点においてもダンサーチームのスタンスは変わりなく、ナタリーの20周年インタビューでは「survival dAnceがオリコン1位になって事務所が沸き上がっても何もうれしくなかった」旨を語っている。
そんなダンサーチームのスタンスに変化が生まれたのは、『BILLIONAIRE』ツアーの日程が自分たちのスクールの10周年公演と被ったことで、本人たちとしては従来通りスクールを優先しようとした際に「それは困る」と説得を受けてしぶしぶ臨んだツアーで盛り上がる観客に驚き、自分たちが広く認知されていることを知ったことがきっかけという。その後モチベーションが上がり積極的に関与する中で、当時低かったダンサーの処遇改善など、現代のダンスグループ隆盛につながる下地が作られていったといえる。
1995年3月発売のアルバム『dAnce to positive』は200万枚を超える大ヒットとなった。先行シングルの『Overnight Sensation』は日本レコード大賞を受賞、trfの話が出る前のダンサーチームは「テクノとユーロが嫌いな音楽」であったといい、ダンサーチームに対して小室は「我慢してくれ、数年経ったときに必ず合う曲を作るから」と約束していた。その約束の曲が『Overnight Sensation』であり、これ以降、trfの音楽性はアメリカ的な方向(ヒップホップ、ソウル、R&B)へ向かっていく。この変化は、数年後の音楽業界を考えれば先取りであったとも言えるものの、この時点においては小室プロデュース王道路線から逸れていくことでもあった。
「trf人気はどこがピークであったか」と聞かれたら、95年夏の『TK DANCE CAMP』だと思っている。一方このイベントでは、既にユーロビートカバー路線で売れていた安室奈美恵の小室プロデュース曲と、小室が直接参加するglobeが披露され、「これからはこっちを売っていくよ」的な雰囲気が広まったのも事実であった。その場には出演しなかったものの、同時期に華原朋美もデビューし、いわゆる小室ファミリーが形成され始め、95年後半から屋台骨はそちらに移っていった。
また、アルバム『dAnce to positive』を発売後にツアーが始まり、年頭から出ずっぱりだったテレビ露出が減少したあたりで、YU-KIソロ説や解散説がささやかれだした。解散はともかくソロは本当で、実際に『teens』はタイアップCMの投下当初はYU-KIソロのクレジットであったが、途中でtrf名義に変わり、『Happening Here』との両A面シングルでリリースされた。
このような立ち位置の変化は、自作自演のアーティストであれば、しがらみが薄れ自由度が高まることでもある。だが、この当時様々な事務所から新規プロデュースの話がいくつも来て増えていく小室ファミリーの中で「trfはもうそんなに売上が上がらなくてもいいか」ということにはならない力学も存在していた。やりたい/やらせたいことと求められることの不一致があって、DJ KOOの「小室さんも少し迷った部分があるんだと思う」という言葉はこの辺りのことを指しているのではないか。
さて、96年6月発売のシングル『Hey! Ladies&Gentlemen』から、小文字であった『trf』の表記が大文字の『TRF』へと変わる。当時の実感としては「とにかく突然」であったが、発表した側の態度は「えっ、前から変えるよって言ってませんでした?」的な感じでサラッとしていた。
想像というよりも妄想であるが、本当は『BRAVE STORY』のときに発表して変えるはずだったのではないかと思っている。そもそも『Hey! Ladies&Gentlemen』の品番は『BRAVE STORY』より後であり、リリースはTBC(東京ビューティーセンター)のタイアップ企画の事情で、急に決まったものだと思うのだ。曲調も大人っぽさがあるものの、当時の流れの中では若干先祖返りしている感もあり、音楽性から見た戦略的には予定になかったものだと思っている。
何はともあれ、96年はシングル5枚をリリースする一方でアリーナツアーを実施し、売り上げは低下していったものの精力的に活動していた。
しかし翌年97年が問題の年となる。結果的には1年の活動休止状態となった。
この活動休止状態は、元々決まっていたものではなかった。97年前半にはアルバムの予定が立ち消えとなったり、TRFで発売されると一度予告された曲がYU-KIのソロシングル(『dragons' dance』)になったりと、方針変更によって結果的に休止状態となったものである。
この背景には、97年春頃から小室とavexの関係が悪化しはじめたことがあった。これが夏には決裂してavex関係者が小室の周囲から引き上げるという事態が起きていたとされる。最終的にはその後もビジネスとしては付き合いが続いたものの、これまでの蜜月状態は終結。avexは自社クリエイターを使った制作を始め、それがEvery Little Thing、浜崎あゆみにつながっていく。
そしてこの余波により、avex系の事務所にいたTRFとhitomiは小室プロデュースを離れることになった。97年は、これらのごたごたに巻き込まれた上の休止状態だったのである。ちなみにKEIKOもavex系事務所であったため、落としどころが決まるまでglobeも活動が停滞した。
1998年1月1日発売のベストアルバム『THE WORKS』を小室プロデュース時代の総まとめとして、TRFは小室プロデュースから離脱し、セルフプロデュースへ移行した。
2月にはシングル『Unite! The Night!』を発売して活動を再開。同曲と『Frame』はいい出だしだったが、ノンタイアップの『TRY OR CRY』で大コケ。ここから、CDセールス的にはTK時代後期の「下降」と言う表現から「凋落」と言う表現に代わっていった。
このセルフプロデュース2年間ではシングル9枚、アルバム2枚を発売。しかし発売するごとに売上枚数が下がっていく負の連鎖となり、2000年にリミックスの『Burst drive mix』シリーズをリリース後、zento、a-nationなどのライブイベントへ参加するのみの活動が続いた。この頃の状況は「CDリリースをしたくともGOサインが出ない」状況であったと思われる。
歯に衣着せぬダンサーチームに言わせれば、小室プロデュース末期からこの辺りのことを「自分たちのダンスが見せられるようになってきたと共に売れなくなってきた」となる。それでもアルバムを出しツアーが出来ていたときは自分たちのダンスと共にステージの演出の幅が広がって充実していたとも思うが、2000年以降の停滞時期は「一番踊れる年齢なのに踊れない」ことが辛かったという。
ポップミュージックのダンサーとしてキャリアをどう積んでいくのかという答えが、当時は一つもなかった。先人であるZOOは、解散してそれぞれアンダーグラウンドに戻っていった(筆者の見解)。これは「やりたくないことはやらない」アーティスト的な見方としては正解なのかもしれない。
TRFも解散しようと思えば出来たのかもしれないが、所属したままアーティストの振り付け指導・ライブ演出を行い、大規模公演のノウハウを蓄積していったダンサーチームの苦労が、その後のEXILEをはじめとするLDHグループや、K-POPのダンスグループの運営における下地を作ったと言っても、過言ではないと思う。
2006年1月、6年ぶりにシングル『Where to begin』を発売し活動を再開。
2月15日にはアルバム『Lif-e-Motions』を発売、夏にはツアー『Lif-e-Motions Tour 2006』を開催した。
11月29日、『GOING 2 DANCE』〜『WIRED』までの8cmシングルをマキシシングル化したものと、これまでのライブDVD廉価版を発売。
同時発売の新曲『We are all BLOOMIN'』は、シングルでは『LEGEND OF WIND』以来、10年ぶりの小室プロデュースであった。
(シングル以外では『One Nation』(2001年)が小室プロデュース)
2007年2月7日に『TRF 15th Anniversary BEST -MEMORIES-』を発売。
7月11日に新曲『lights and any more』を配信限定で発売。10月17日にはCDシングル『iNNOVATiON』を発売。また、11月から12月にかけて15周年記念ライブツアー・『TRF 15th Anniversary TOUR -MEMORIES- 2007』を開催した。
2008年は4月23日に30thシングル『Live Your Days』と、DVD『COMPLETE BEST LIVE from 15th Anniversary Tour -MEMORIES- 2007』を発売。夏はa-nation'08に全公演参戦を果たした。そして2009年2月11日、3年ぶりのオリジナルアルバム『GRAVITY』を発売した。
2012年6月に、ダンサーチームによるエクササイズDVD『EZ DO DANCERCIZE』を発売開始。これが大ウケし、1年後の2013年2月にはシリーズ累計100万枚突破が発表された。
2012年11月21日、『TRF 20TH Anniversary COMPLETE SINGLE BEST』で20周年の音楽活動が開始。これまでのシングルA面曲と、小室哲哉プロデュースの新曲『EVERYDAY』を含めた全32曲収録のベストアルバム。
そこで期待が高まったところで、2013年2月25日にミニアルバム『WATCH THE MUSIC』を小室プロデュースで、かつその象徴ともいえる小文字表記の『trf』として発売。その活動と並行して、トリビュート盤『TRF リスペクトアイドルトリビュート』『TRF TRIBUTE ALBUM BEST』『VOCALOID3 meets TRF』も発売された。
25周年となった2018年2月に単発ライブ『TRF 25th Anniversary THANXXX!!! 25 Best Hits LIVE & Party』を開催。
同年12月16日には配信限定で新曲『LET ME GO MY WAY feat. Daisuke Asakura』を発売。タイトルにある通り浅倉大介プロデュースで、さすがに親和性が高い。
30周年イヤーとなる2023年2月にZepp Hanedaにて『TRF 30th Anniversary Live THANXXX!!! LIVE & Party』を開催。それから1年、『EZ DO DANCE』の再レコーディング、特別番組の放送など露出を増やし、2024年2月には約25年ぶりの日本武道館公演『TRF 30th Anniversary Live at 日本武道館 "past and future."』を成功させた。
3月には新曲『TRy the Future』を収録した30周年記念ボックスを発売。1年期待させた割には…という内容であったが、発売までこぎつけたことがよかったと思うべきか。
音楽ナタリー : trf20周年インタビュー
WEB ザ・テレビジョン : DJ KOOインタビュー #2
20 Years After -TMN通史- : 6-10 小室哲哉、avexとの決別
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